ロングプロフィール

こちらのページはよつばのプロフィールの詳細ロングバージョンです。
 
幼少期から今に至るまでのことを書き綴ってます。
 
もし通常のプロフィールをまだお読みでない方はこちらをどうぞ^^ ➤プロフィール
 
 
◇幼少期;幼少期から活動的
 
目を離すとすぐにどこかにいってしまう活動的な赤ちゃんだったと聞いています。
 
歩けるようになっても赤ちゃんが乗せられる歩行器に乗せられてました。
 
なぜならあまりに活動的だったので行動を制限させるためだったようです。
 
雨の日でも外に行くのが好きで、傘を差しながらアサガオの花も興味深く見ていたのを覚えています。
 
 
◇小学生時代
 
小学生1年生になるとプールに通う様になります。
 
水泳のコースロープに捕まって泳いでいる人を見て、それを自分もしたくなり「プールに通いたい」と言ったのを覚えています。
 
実際に通ってみるとコースロープには捕まってはいけないと指導され驚きます。
 
プールには小学校6年間通いました。
 
また、小学4年生の時に喘息にかかります。
 
僕の場合は運動をするとでてしまう喘息でした。
 
喘息になると呼吸困難に陥り、苦しくなります。
 
また、全身に赤い斑点もでてくる症状でした。
 
余りに苦しくその場から動けなくなることも多々ありました。
 
プールで泳いでいる時はなぜか喘息がでてこないので、水泳が好きになりました。
 
また、山などの自然の中にいるときも喘息が出にくかったのを覚えています。
 
父親が厳しかったのであまり家に帰りたくなかったですがそれ以外は楽しかったです。
 
 
◇中学生時代
 
中学では卓球部に入りました。
 
小学校の時の友人のほとんどが卓球部に入ったので、僕も卓球部に入りたかったからです。
 
卓球は運動量も他のスポーツに比べて少なかったので、喘息になりにくいのもよかったです。
 
勉強は数学が得意でしたが国語は苦手でした。
 
文章を読むとなぜか上手く集中できず、まともに読む事ができなかったので国語は苦手でした。
 
理由はわかりません。なので、理系に進むことにしました。
 
勉強はそこそこできたので志望校の千葉市立稲毛高等学校に進むことができました。
 
喘息は苦しかったのですが、なんとか乗り切り、卒業しました。
 
 
◇高校時代
 
高校は、千葉市立稲毛高等学校に入学しました。
 
高校ではバドミントン部に入部しました。
 
バドミントン部は運動量が多く、よく喘息の発作がでました。
 
土日は練習時間が平日よりも長く「もし発作の呼吸困難で死んだらどうしよう」と頭を毎回よぎりましたが「もし死んだらそこまでのことだ。仕方ない」と割り切り、気力で乗り越えました。
 
また、喘息の発作がでた時は「なぜ自分は毎日こんな辛い目にあわなければならないんだろう。」と嘆いていた事を覚えています。
 
嘆くくらいならやらなければ良かったし、嘆くほどのことでもないな、と今では思っています。
 
また、親は教育熱心だったので塾にも通い勉強もある程度頑張って取り組んでいました。
 
その甲斐あって、第一志望の大学に行くことができました。
 
 
◇大学時代
 
東京理科大学理工学部物理学科へ入学しました。
 
部活は最初、水泳部を考えました。
 
しかし、部員が多くいて、様々な価値観の人がいました。
 
大人数の組織の人付き合いは関係が浅いと感じました。なので僕にはあまり合わないかも、と思いました。
 
なぜなら、僕はそれまで少数の人と深く関わる友達付き合いしかしたことしかなかったからです。
 
そこで、別のサークルを探していたところ、探検部という少しネーミングの変わった部活を見つけました。
 
その部活は、初対面とは思えない程、もの凄く馴れ馴れしくディープに勧誘してきました。
 
僕は接してみて「この人たちはちょっと馴れ馴れしくて変わっているけど悪い人たちじゃなさそうだ。もしかしたらこっちの方が僕には合ってるのかもしれない。」と思って入部してみることにしました。
 
入部してみるとなぜこんなにも個性的で馴れ馴れしく仲が深いのか、よく分かりました。
 
探検部は山に登ったり川を下ったりと他の部活に比べて危険を共にします。
 
危険を一緒に乗り越え、一緒に寝泊まりするので、とても仲が深くなるわけです。
 
一緒に寝泊まりすると遠慮とかもなく、ずけずけとプライベートな面に土足で入り込んできますwww
 
また、その方が僕には合っているかも、とも思いました。
 
僕は探検部で様々な所に探検しきました。
 
山に登ったり川下りしたり、自然と触れ合う良い部活でした。
 
また、様々なバイトも経験しました。
 
初めてついたバイトがディズニーランドでした。
 
特に為になるアルバイトと思いました。
 
ディズニーランドでは、クイーンオブハートのバンケットホールというレストランでバッサーという仕事をしていました。
 
給仕の様な仕事です。
 
ディズニーランドでは”クレド”という行動基準に従う方しか雇わない方針でした。
 
クレドとは、SCSEと呼ばれる以下の行動基準です。
 
第一優先のS;Safety_安全性
第二優先のC;Courtecy_礼儀正しさ、親切心、丁寧
第三優先のS;Show_全ての従業員は、ショーマンとして常に周囲を喜ばせる存在でいること
第四優先のE;Efficiency_効率
 
ディズニーランドでは効率は一番優先順位が低いものになります。
 
第三優先のShowとは、どんなに辛い事があってもそれを周囲の人に悟らせず、常にショーマンとして振る舞うことが大切との教えです。
 
また、第二優先の礼儀正しさは、心の礼儀正しさがとても重要とのことでした。
 
ディズニーランドでは、例えばお客さんが指輪を噴水に落としたら、その水を全て抜き取り、指輪を探します。
 
お客さんにとって重要なものは採算度外視で捜索します。この様にお客さんを大切にする風土があります。
 
「ディズニーランドにいる間は何だか良い人になれる気がする」と僕の友人が言っていましたが、そういった風土があるからだと僕は思いました。
 
また、第一優先は安全との事でした。身体の安全がなければ心から楽しむことが難しいからとの事でした。
 
この様なことを学生時代に学べたのは僕にとって財産となりました。
 
ディズニーランドのサービス精神を学生時代に学べて、本当に良かったと思っています。
 
僕は教育に関しては、非常に恵まれていると思っています。
 
 
◇大学院時代
 
その後、無事東京理科大学理工学部物理学科卒業しました。
 
大学院生になる辺り、そろそろ将来のことを考えようと思い、その当時、「僕は研究者になろう!」と思いたちました。
 
なので、日本で最高の研究機関で学ぶのが良いだろうと思いました。
 
物理の研究の多くは「これ本当に社会の役にたつの?」と思うような研究テーマが多かったので、僕は何か社会の役にたつ研究がいいな、と思いました。
 
その時、茨城県の筑波にある産業技術総合研究所という独立行政法人で「有機EL」という未来のディスプレイ技術の研究テーマが行われていることを知り、興味を持ちました。
 
有機ELとは液晶の次のディスプレイ技術になるので「これは社会の役にたちそうだ」と思いこの研究をしてみようと思いました。
 
これは2002年位にされていた研究テーマなのですが、今やっとスマホやテレビで市場にもでてきていますね。
 
この研究機関は独立行政法人なので、とてもハイレベルで、人間関係や仕事関係などの悩みが多くなりました。
 
非常に辛い研究生活でした。
 
しかし、院生の2年間だけだから辛抱しようと決めて頑張りました。
 
最初、与えられたテーマをこなしてゆくうちに、有機ELの理解がすすんだお蔭で、僕は新しい研究テーマを思いつきました。
 
なので、卒業研究テーマは1年弱で終わらせ、僕が思いついた研究テーマを上司や先輩に提案してみました。
 
「これは上手くいくとは思えないけど卒業テーマももう終わらせてるしやってみて良いよ」と言われ、実験してみました。
 
すると、たまたま成功しました。
 
それは、光トランジスタというもので、世界初の発明となりました。
 
これは話題になり、学会で発表したり、論文も書きました。
 
また、上司の方にも目をかけていただき「大澤君の就職したい企業はどこだい?どこでも好きなところに行かせてあげるから言ってごらん」
 
と言って頂きました。
 
それにより、東証一部上場の大手エレクトロニクスメーカーの研究開発本部への就職が無事決まりました。
 
 
◇会社員時代
 
某東証一部上場の家電メーカーに入社しました。
 
そこで、社会の事を色々学ぶ事が出来ました。
 
そこでは夜11時位まで仕事していましたがあまり疲れませんでした。
 
僕は「ここは独立行政法人よりずっと快適だ。なんてすごしやすいのだろう!」と驚きました。
 
ただ、上司や先輩たちをみていると毎日精一杯努力している様には見えませんでした。
 
僕は「たぶん10年後はこの人達のように僕もなるのだろう。はたしてそれは良い事なのだろうか?本当に幸せになれるのだろうか?」と考えるようになりました。
 
結果「確かに企業にいれば安泰かもしれない。しかし努力して勉強しないからたぶん幸せにはなれないだろう。新しい方向を模索した方が良いかもしれない。」という結論に至りました。
 
そこで、僕は自分が何をすべきかよく考えてみることにしました。
 
僕は喘息で身体が弱く、助けられることが多かったので、何か人を助けたり、幸せにできる仕事をしてみたいと思うようになりました。
 
しかし、これから医療を学ぶのは難しいと思いました。
 
「何か人を幸せにできることはないだろうか?」と探していました。
 
そしたら、職場の人に「一緒にビジネスしないか?」とお誘い頂きました。
 
それはネットワークビジネスというものでした。
 
よく「怪しい」と世間で思われていたので僕はよく調べてみることにしました。
 
僕はこのビジネスを見て「自分の好きな友人に収入が入るので良い面もあるかもしれない」と思いました。
 
しかし、社会的には良いと思う人が多くはないビジネスでした。
 
そこで、僕はすぐに辞めてしまいました。
 
初めての起業失敗です。
 
その後、インターネットで色々と調べてみて、教育系の商材を扱う副業をやってみることにしました。
 
そこでは良い仲間にも恵まれ、夜中の11時に帰ってきてそれから活動してもあまり疲れませんでした。
 
次第に成果が出始めて3カ月連続のMVPを取りました。
 
そして、就職してから約2年半後、自営業で独立することにしました。
 
周囲の人には「なぜこんな良い会社なのに辞めるんだ?」と首を傾げ、不思議に思われました。
 
僕も特に不満の無い環境だったので手放したのは少し勿体ないかも、と思いましたがその時は1日でも早く勉強して、成長したいと思っていたので仕方ないと思ってます。
 
 
◇独立時代
 
独立後しばらくすると、僕の扱っていた教育商材の会社が日本から撤退する、ということになってしまいました。
 
2度目の廃業です。
 
僕は特に焦りませんでした。「失敗したら企業に戻ればいい」位にしか考えていませんでした。
 
仕方ないので別の事業を模索し始めました。
 
僕は本やセミナー等の自己投資を惜しまななかったのでセミナーでのスキルアップのサポートが良いと思いました。
 
そのため、講師を呼びセミナーを開催する仕事をしようと思いました。
 
セミナープロモート事業というものです。
 
会社員とは比べてものにならない位、不安定な暮らしではありましたが楽しい面もありました。
 
自分自身も自己投資を惜しまず行い、色々な書籍やセミナーで勉強したことを実践してゆきました。
 
しかし、なかなか成果がでてきませんでした。生計はなんとか立てられるのですが突き抜けることができませんでした。
 
自分なりに努力はしているつもりでしたがどうすれば良いのか分からなかったのです。
 
そんな時に、セミナー後の食事会で僕に話しかけてくれるおじちゃんに出会いました。
 
とても気さくに冗談をよく言うおもしろいおじちゃんでした。
 
僕は一緒に会話し、楽しい時間をすごしました。
 
Iさんはトイレに行き、帰ってきたとおもったら不思議なことを僕に言いました。
 
「よつばくん、君は経営を勉強しないか?もし良かったら明日からうちに勉強しにこない?」
 
と言ってくれたのです。
 
僕は「いったいどうしたのだろう?」とすこしぽかんとしていたら、
 
「今トイレにいってたら君を助けなさいという声がきこえた。確かにはっきり聞こえた。僕はその声には従うようにしてる。だから誘ってみる事にした。」
 
と言うのです。
 
僕は良く分からなかったのですが「ありがとうございます。明日からお伺いします」と即答しました。
 
僕は翌朝6時に家を出て、新大久保にあるIさんのご自宅に行きました。
 
ご自宅に伺うと、沢山の資料を用意してくれていました。
 
その資料はIさんが参加した事のあるセミナーの講義資料でした。
 
僕が覚えているのは以下です。
 
・全米No1マーケター、ジェイエイブラハムのセミナー
 
・世界No1コーチ、アンソニーロビンズ
 
・世界的経営学者 ピータードラッガー
 
といった世界クラスのセミナーの資料だったのです。
 
渡航費や宿泊費や通訳代や交際費などを含めると一回のセミナーで300~500万はかかるそうです。
 
そう、Iさんは高額セミナーに足しげく通う自己投資マニアだったわけです。
 
さらに、僕はIさんの風貌が普通の会社員がきてるような背広だったので裕福とはとおもっていませんでした。
 
しかし、実際には、人材業界で成功されている億万長者の方でした。
 
東京の新大久保駅の徒歩圏内に一軒家を構えるような方でした。
 
また、おじちゃんに着いてゆくと毎回、道順を変えていました。
 
その理由は「防犯対策」と言っていました。
 
お金持ちは色々な人によく狙われからセキュリティを高める為に道順を毎回変えているとのことでした。
 
僕は、Iさんの家でセミナーの講義資料を学び、実践し、夜は食事をご馳走してもらいました。
 
お店にも連れて行ってもらいましたが、Iさんの奥さんの手料理が一番美味しかったです。
 
奥さんは中国の方だったので食べたことの無い料理を沢山たべさせてくれました。本当に美味しかったです。
 
Iさんは「勉強したことを習慣化させるのが大切だから毎日くると良い」と言って下さいました。
 
僕はそのお言葉に甘え、毎日、Iさんのご自宅に通い、勉強させてもらいました。
 
最初、僕は「たぶん本質的だから僕には意味がわからない。これは本当に意味があるのだろうか?」と内心思いましたが、それは言葉にださずにとにかく素直に実践してゆきました。
 
Iさんは「考えずに、とにかく行動あるのみ」とよく言っていました。
 
僕は「そうなのか」と思ってとにかく行動しました。
 
また、Iさんは「直感が大切だ」ともいつも言っていました。
 
僕は「よくわからないけど信じてみよう」と思い付いてゆきました。
 
何が変わったのかはよく分からないのですが、次第に成果がでてくるようになってきました。
 
何かが変わったようですが、自覚はあまりありませんでした。
 
大体、半年位して「大澤君はもう大丈夫だろう。」と言って頂きました。
 
そこで僕は勉強していたコーチングを生業にすることにしました。
 
 
◇コーチングについて
 
僕が独立してしばらくしてからセミナー仲間から「コーチング」という人生を変えられるものがある、と聞きました。
 
僕は当時、学生のビジネスパートナーと一緒にそのコーチングの話を聞きに行くことにしてみました。
 
僕はコーチングの話を聞いて「もしかしたら僕がしたかった人を助けたり、幸せにできるものなのかもしれない」と思いました。
 
なので勉強すると良いのかも、と思いました。
 
しかし、コーチングの料金が1回60分60000円だったので、貧乏な僕にはとても手が出せない、と躊躇しました。
 
一緒に来ていた僕の学生ビジネスパートナーは「受けたいなぁ~、よつばさん一緒に受けましょうよ~」と言ってきました。
 
その学生は、100万円位する教材も躊躇なくローンで買う位の自己投資マニアだったのでそう思った様です。
 
僕は本当に効果があるかは、半信半疑でしたが長い人生からみたらそこまで大きな金額ではないし、騙されたとしても良い勉強になるだろう、という気持ちになりました。
 
なので、その学生とコーチングのフィーを折半して通常の半分の回数を受講することにしました。
 
確か、半年間位の契約だったかと思います。
 
その間、一生懸命勉強しようと思いました。
 
僕はなぜかは分からないのですが、コーチングで学ぶことは既に実践している事が多く、要領を予め知っているような心地でした。
 
伝えてもらったことの本質的な意義、意味付けをコーチに確認しに行く、という感じでした。
 
おそらく他のセミナーで習い、実践していたことが応用できたのかもしれません。
 
しばらくすると、そのコーチから「大澤君は僕のクライアントの中でのベストクライアントだ」と言って頂けるようになりました。
 
そのコーチは世界No1コーチと言われているアンソニーロビンズのところでコーチングを学んでいる方でしたので少し自信がつきました。
 
そこで僕は最初「いろんな方に無料でコーチングしてみよう」と思い、友人たちに声をかけてみました。
 
僕は元々、友人の相談に乗ることがよくあったのと、深い話を友人と一緒にする事がなぜか子供の頃から好きだったので声をかけてみたわけです。
 
すると、教育系の商材の販売である程度成果を出していたのもあり、色々な人が僕のコーチングを受けにきてくれる様になってきました。
 
友人の相談にのると「私が営業成績No1になれた。信じられない!」や「心が楽になった。ありがとう」などと言って貰えました。
 
友人たちにとても喜んでもらい、僕も嬉しくなり、満足しました。
 
そして、半年くらい毎日コーチングをしていたある日、友人の一人から提案を頂きました。
 
「このコーチングにはとても価値がある。だからお金をだすので時間をしっかり作って定期的にやってくれないか?」というものでした。
 
僕は毎日コーチングで忙しくなったのでこの様な提案を頂いた訳です。
 
僕はこの思いもよらない提案にしばらく悩みました。友人たちからお金をもらうことにとても躊躇したわけです。
 
しかし「これを仕事にすると良い」という直感がきました。その直感に従うことにしようと思いました。
 
料金については僕には決められないと思ったのでアンケートをとってみることにしました。
 
「平均して1回60分10万円位の価値がある」という集計結果がでました。
 
営業成績でトップになったり、売上が上がったのでこれくらいの価値があるとのことでした。
 
ただ、僕は「友人だから少し気を使って高めに言ってくれてるのだろう」とも思いました。
 
なので、大体1回60分3万円位に設定して提供してみることにしました。
 
始めてみると、お客さんは途絶える事なく、毎日きてくれました。
 
貧乏だったのですが、突然、お金が入るようになりました。
 
そして、幸せな日々をしばらく送りました。
 
 
しかし、数年後、僕の心身に異常が起きました。
 
全身に倦怠感と痛みがあり、その痛みで思考もままならない状態になりました。
 
 
◇原因不明の状態
 
僕は解決に専念するために仕事を辞めるしかない、と思い、コーチングの仕事をやめることにしました。
 
僕は両親と病院に行き精密検査をしてもらいました。
 
検査結果は「異状なし」とのことでした。
 
僕は「こんな痛いのに異常が無い訳がない!」と思い、いくつも病院を周りました。
 
しかし、現代の医療技術では、異常を見つける事はできませんでした。
 
ある日、たまたま僕の保育所来の友人の母親に病院で会いました。
 
僕は動くことができなかったので車椅子に乗っていました。
 
その僕の変わり果てた姿をみた友人の母親は「あんなに元気だったのに・・・」と泣きだしました。
 
僕も悲しくなりました。
 
記憶はあいまいなのでよく覚えてないですが、いつしか少し歩けるようになりました。
 
そこで僕は「もしかしたら精神的なものかもしれない」と思い、精神病院にも行ってみることにしました。
 
精神科のお医者さんには「そんな症状は聞いたことがない」と言われました。
 
そこで別の精神病院にも行きました。
 
そちらでは衝撃的なことを宣告されてしまいます。
 
「この病気は治らない。だからこれからは障害者として生きて下さい。もし運が良ければ工場で単純作業位はできるようになるかもしれません」と宣告されてしまいます。
 
僕はその宣告を聞き「この医者は表現を間違えている、ここの医療技術では治し方を知らない、と言わなければならないのに、”治らない”と言ってしまっている。これは誤診ではないか?」と分析しました。
 
しかし、両親はこの宣告をまともに受けてしまい、とても悲しみました。
 
その悲しみは想像を超えるほどでした。
 
そして、精神病棟に隔離される決定が下されてしまいました。
 
僕は「医者には権威はあるが、普通の人間なのだから、自分の知見で判断し、ものを見誤る事がある」というのを知っていましたが、親はそう考えることができなかった訳です。
 
そこで、僕は「この医者は僕の症状も分からないのに治らないと表現している、この医者の言っている事は間違っている」と気づき、すぐに逃げ出しました。
 
しかし、父親に取り押さえられ、医者から大きな注射を差されました。
 
精神的な痛みなどを抑える作用があるとのことでしたが、僕の分析では神経を麻痺させる作用をもつ薬だと思いました。
 
僕は「この薬はまずい、麻痺で思考がまともにできなくなってくる、今この状況で解決しようとしているのは自分だけだろうから僕が考えられなくなるのはまずい、解決できなくなるかもしれない」と思いました。
 
僕は心身の痛みがひどく、正気を保つのも精一杯なのに、さらに、薬まで投与され、頭や感覚までおかしくなるこの状況を鑑みて、正念場だと思いました。
 
判断を誤るとこの症状は一生治らなくなる、と考えたわけです。
 
僕は両親に、
 
「あのお医者さんは表現を間違えている。この病気を知らないのに治らないと言った。現代医学では治し方をしらない、と表現すべきと思う。」
 
と説得しました。
 
しかし、両親にとってお医者さんとはかなりの権威のある存在。ましてや親からすれば、僕は障害者。意見を聞き入れてはもらえませんでした。
 
さらに僕は両親に「治らないと言っている医者の処置に従っても治る見込みは薄い。それでも良いのか?」と親に言いました。
 
親は「医者が治らない、と言っているのだからそういうものなんだ。医者の言うことを聞きなさい!」と僕に逆に言い聞かせようとしました。
 
両親は絶望していたのでその様に思っても仕方ないと思いました。
 
僕は自分で治すしかない、と腹を決めました。
 
そこで、僕は「ここにいたらすぐに精神病棟に送り込まれてしまう」と思い、海外への逃亡計画を即決。
 
僕は以前から海外旅行に行っていた経験を活かし、インドの田舎に逃げることにしました。
 
親の隙をつき、僕は予め準備した旅行バックをもち、捕まらない様にして家を密かに脱出しました。
 
そして飛行機にのってから「しばらくインドにいることにした」とメールで親に連絡しました。
 
親を悲しませるとは思いましたが、最悪を避ける為には、そうせざるを得ないと思ったわけです。
 
僕はこの状況を解決するために現状分析を行いました。
 
医者にとっては前例のない症状とのことだったので、僕はアプローチ自体を根本的に変える必要があると思いました。
 
西洋医学では治らないので、東洋医学はどうだろう、と思い試行錯誤も始めました。
 
僕の症状をリサーチしてみましたが、信じられるようなものはでてきませんでした。
 
なので、僕はそもそもこの症状は”病気ではない何か”かもしれない、という思いもでてきました。
 
得体の知れない状況でしたが「仕方ないか」と自分の状況を認めまた。
 
落ち込んでいては解決から遠ざかると思い、試行錯誤してゆこうと思いました。
 
インドに到着後、インドでは楽しい発見が沢山ありました。
 
まず食事はとても美味しかったです。インドでは肉や魚を食べないベジタリアンでした。
 
僕は農薬や化学肥料を使わない昔ながら野菜を毎日食べました。
 
特に、人参とトマトのサラダを毎日食べました。
 
僕は野菜に驚かされました。
 
噛むと甘く、太陽に包まれるような感覚が広がりました。
 
僕は「ここで暮らしてゆく内に治るかもしれない」と直感しました。
 
日常生活も、冷蔵庫、掃除機、洗濯機などは無いのですがとても快適でした。
 
レストランの料理は一食250円位でした。なので、毎日レストランに行っていたので冷蔵庫は不要でした。
 
掃除はほうきで十分だったので掃除機も不要でした。
 
洗濯はバケツに水と洗剤と着たものを入れて3時間くらい待つと綺麗になりました。なので、洗濯機も不要でした。
 
僕は平和な日々を過ごし、症状は予想通り、和らいでいきました。
 
僕は医者のいう事に従わなくてよかったと安心しました。
 
僕は生まれ変わったかのような感覚になっていました。
 
心が落ち着き、穏やかになり、内的な力が増しました。
 
その当時、インドはビザの関係で3カ月間いられるのですがまたたく間にすぎてゆきました。
 
僕は日本に帰国しました。
 
 
◇社会復帰編
 
親は、少し元気を取り戻した僕を見て、精神病棟に送るのを辞めた様でした。何も言ってきませんでした。
 
僕は帰国後、何か仕事をしようと思いました。何とか社会復帰を目指そうと思ったわけです。
 
まだまだ症状は残っていましたが気力で乗り越えるしかないと思いました。
 
思考は健全な時の10%くらい、移動スピードは30%くらいと思いました。なので、この状況では、単純作業しかできないだろうと思いました。
 
コーチングの仕事は、思考力も精神力もかなり使うので今はできない、と思ったわけです。
 
その状況を踏まえて仕事を探してみると、大学の研究補助の求人をみつけ、応募しました。
 
僕の経歴を見た教授はすぐに採用したい、と言ってくれましたが僕は身体の症状が不安だったのでまず1週間位テストした方が良いと提案しました。
 
しかし、僕を採用したいとのことで採用が決まりました。期間は1年間でした。
 
その教授はあと1年で定年だったので最後の研究を完成させたい、とのことで依頼しました。
 
次の日から働きに行ってみることになりました。
 
僕は自分の記憶力があまりに弱くなっていることに驚きました。
 
同じミスを何度もしてしまうのです。
 
以前の僕はほとんどの作業を1回で覚えられたので驚きました。
 
教授は「何たることかっ!」と激怒しました。
 
しかし、教授は、僕の専門がもともと違うからだろう、と思って理解している面もありました。
 
本当の理由は、説明しても信じてもらえないだろうと思い、僕は伏せました。
 
しばらくすると僕は作業を覚えました。
 
すると、教授は打って変わって僕を気に入るようになりました。
 
色々なことを僕に相談するようになりました。
 
僕は研究者としては産総研で学んだので、様々な改善点を提案するようになりました。
 
 
ちなみに、その教授は、不仲な生徒が多い方でした。
 
その教授はこれまで実績を沢山だしてきたのですが、その反面、研究が下手な生徒を馬鹿にするところがあったのと癇癪をおこす癖があったからです。
 
教授と不仲の生徒は、僕のことを良く思わなくなり、僕を遠ざける様になりました。
 
僕は「生徒と仲良くしたかったからすこし残念だけどまぁ仕方ないか」と思いました。
 
ただ、僕に積極的に話しかけてくる生徒もでてくるようになり、すこし楽しくなってきました。
 
1年間はまたたく間に過ぎて、期間を満了したので、次は派遣の仕事をしてみることにしました。
 
応募してみたところ元々研究者の経歴があったのですぐ採用になりました。
 
派遣先は大手化学メーカーでした。
 
僕は、頭が痛く、記憶が上手くできなかったので、またもや機器の使い方を覚えるのに時間がかかりました。
 
健全な時だったら1回で覚えられたことが、10回位しないと覚えられなくなっており、何度も同じ失敗をしました。
 
正直、こんな簡単な仕事で何度もミスをする自分自身に驚きましたが仕方がないと思いました。
 
最初、上司は仲良く話をしてくれました。
 
しかし、僕が何度も同じミスをするのを見て、上司は陰口を言い始めました。
 
その上司は僕の陰口を広めて別の派遣に代えたいと思ったのかもしれません。
 
僕は「この上司はおそらく効率良く作業すれば良い研究成果が出ると思っているのだろう、僕はそうは思わないけど、まぁ実際そういう面もあるのかもしれないし、そう思う人も多いから仕方ないだろう。」と思いました。
 
僕はせっかく仲良くなれそうだったので少し残念だけど仕方ないか、と思い、あまり気にしない様にしました。
 
もしもその上司に僕の身におきたことを一通り話せば理解してくれたかもしれないですが、たぶん信じる事は出来ないだろうと思い、何も言いませんでした。
 
僕は、何度も失敗しながらもやっと作業を一通り覚えました。
 
僕は仕事ができるようになった事をとても喜びました。
 
丁度その頃、別の社員が他部署から移動してきました。
 
その社員は、僕の上司の事を初見で嫌いと思った様でした。態度や言動があからさまだったので誰もが気づきました。
 
さらに、部長の事も嫌いだとその社員は周囲に言いふらしていました。
 
そして、僕の事も嫌っているようで、陰口を言っている様でした。
 
ただ、僕はその社員の事も特に気にせず、仕事ができる喜びを味わう事にしました。
 
しばらくすると、僕のその上司は左遷になりました。
 
現場の人達は実はその上司の厳しさについてゆけず、あまり良く思っていなかったとのことでした。
 
そして、よく陰口を言う他部署からきた社員が僕の新たな上司になりました。
 
最初、僕のことをあからさまに嫌っている態度や言動でした。
 
僕は「ま、いっか」とあまり気にせず丁寧に接するように心がけました。
 
しかし、打合せなどで話してゆく内に少しずつ僕に話をするようになってきました。
 
しばらくすると、愚痴を僕に言う様になりました。
 
その社員は部長が嫌いだったので僕に「あの部長はこんなことも分かってない。ダメな奴だと思わないか?」などと話かけていました。
 
僕は内心”ネガティブな感情を僕にぶつけて発散したいのだろう、おそらくこれはスピード出世した部長への嫉妬かもしれないな、嫉妬は本人にしか治せない、そしてこの方は嫉妬を解決したいとはあまり思ってないだろう、解決を学べる環境もない可能性が高い、なので今の僕ができるのはネガティブな感情に流されない様に気を付けて忍耐強く話を聞く事くらいだろう”と思いました。
 
そこで、僕は「僕は部長とは接点があまりないのでよくわからないのですが〇〇さんもいろいろと大変なんですね。」と返していました。
 
すると、その社員は落ち着きを取り戻し、作業に戻りました。
 
いつのまにか、それが日課になりました。
 
毎朝、僕の顔をみつけると、その方は作業を中断して僕の元にやってきて、他人の悪口を話しに来るようになった訳です。
 
たぶん僕に話をして気分を発散させたかったのだと思います。
 
僕は作業をとめ、毎朝、話を聞きました。
 
僕はコーチングの仕事をしていたので、ネガティブな話への対応力がある程度できたのかもしれません。
 
また、その頃には、僕は作業を考えなくてもできるようになっており、他の方よりも早く正確に作業できるようになっていたので時間に余裕があったからです。
 
ある日、飲み会があり、僕はそろそろ切り返してみる頃合いかな、と思い、自分が思っていることを言ってみる事にしました。
 
いつも通り、僕に部長の愚痴を一通り話、その後、僕は「でも部長の方は結構評価しているかもしれないですよ。そうじゃなかったらこの重要な仕事を任せてないと思いますよ」といいました。
 
つまり、部長の方はあなたを認めようとしているのではないか、と伝えてみたわけです。
 
すると、それまで流暢に話していたその社員はピタッと動きがとまり、黙りました。
 
そして「そんな訳ないでしょ~。」と言いました。
 
僕は「派遣の僕にはよく分からないのですがこのプロジェクトってかなり重要な位置づけではないのですか?」と言いました。
 
社員「まぁたしかにそうだけどね。」
 
僕「それを任せてくれてるってことは部長の方は認めているのかと思いましたよ」と言いました。
 
僕は言いたい事を初めて言えて、満足しました。
 
 
それからしばらく経ち、就職してから約1年が経ちました。
 
僕は「身体や思考が5割位は回復してきたようにおもう、そろそろ次の仕事に移れるかもしれない」と思いました。
 
そろそろ派遣の仕事を卒業し、上場企業の正社員の仕事ができるようになったかもしれない、と思った訳です。
 
就職活動してみると、東証一部上場企業が見つかり、応募しました。
 
今度は教育関連に行ってみる事にしました。
 
面接に行き、一通り説明すると、その面接官は、上司を呼んできてくださいました。
 
僕はその面接官の話を一通り聞き、教育業界や事業の改善点を簡潔に説明しました。
 
すると、その場で「すぐ採用したい、どうすればうちに来てくれる?」という話になりました。
 
僕は子供たちと関わる仕事がしたかったので「子供と関われる現場で働けるなら御社に行くことをこの場でお約束いたします」と伝えました。
 
次の面接では、社長と話をすることになりました。社長のお話を聞き、共感し、僕は就職を決意しました。
 
最初、社長直々の研修が始まりました。
 
僕はその社長のお話を聞き、気が合うと感じました。前途洋々と思いました。
 
次に、現場研修が始まりました。
 
すると現場の経営戦略本部の部長がでてきて開口一番「社長のやり方はダメだ」と一喝しました。
 
話を聞いてみると、部長は社長のことが大嫌いで派閥争いが起きている様でした。
 
僕は、社長のお気に入りだった様で最初から攻撃対象のようでした。
 
僕は「この部長は経営戦略本部だ。面接の時、僕は現場配属を希望したから顔を合わすことはないから問題ないだろう」と軽く考えていました。
 
しかし、実際の配属では、僕は経営戦略本部への配属と言い渡されてしまいました。
 
僕はまずいな、と思いました。
 
また、その会社は飲み会などの集会が禁止されていました。
 
理由は、派閥争いを増やしてしまい、優秀な社員がでて行ってしまうからとの事でした。
 
ベジタリアンの僕にはとても良い制度と思いました。
 
ベジタリアンというだけでいじめの攻撃対象になる場合が多いからです。余計な軋轢が避けられると思い、安堵していました。
 
しかし、この制度を破り、飲み会が開かれました。
 
「僕はベジタリアンです」と言ってみたところ、部長は僕のことをあからさまに攻撃してきました。
 
そして、研修では「お前は仕事ができない、だから、このマニュアルを一言一句全て暗記しろ。一文字でも間違えたら最初からやり直しだ。できるまで休日も全て出勤しろ」と僕に告げました。
 
そのマニュアルは営業トークのマニュアルでした。かなりの分量を一言一句間違えずに暗記しろ、という訳です。
 
これは無理な話なので、部長の狙いは僕を過労に追い込むことだろう、と思いました。
 
僕は、久々に怒りと憎しみを感じました。いつもは気にしないことができたのですが、これに関してはできませんでした。
 
怒りと憎しみがでたことに気づいた僕は「怒りと憎しみによって僕の人格は下がるだろう。だからここにいることはできない。」と思いました。
 
また、現場で働く約束を反故にされ、経営戦略本部の配属になったので、僕はすぐに退職することにしました。
 
しかし、その後、経歴に傷がつき、再就職はとても大変でした。
 
次に、高級車の営業職に就きました。
 
僕は上司にとても気に入ってもらえました。
 
しかし、その上司の事が嫌いな他の営業マン達は僕をいじめてきました。
 
上司は「大澤にお前たちはすぐに抜かれるぞ!いいのか?」と他の営業マンを焚きつけました。
 
その営業マン達は僕が仕事を覚えると厄介だと思ったのか他部署に手をまわし、業務ができないようにされてしまいました。
 
仕事をさせてもらえない状態になり、ここもすぐに退職せざるをえませんでした。
 
 
次は、化学メーカーで研究の派遣に就きました。
 
しかし、すぐに僕は専門が違うことに気づき、上司に伝えました。
 
その上司は、僕の経歴をあまり良く聞かずに採用してしまった面接官が原因だと知っていました。
 
しかし、それを言うと責任問題になるので僕が悪いと周囲に陰口を言いました。
 
他の派遣社員も僕の事が嫌いな様で、あからさまに攻撃的な態度を取るようになりました。
 
僕は、仕方がないと思い、3カ月の契約だったのでその間働き、すぐに契約終了になってしまいました。
 
次は、僕は他の研究所に派遣で行くことにしました。
 
ここでは、仲良く過ごせそうかと思いましたが派閥争いがあり、社員同士が疑心暗鬼になっている感じでした。
 
飲み会の席で「僕はベジタリアンです」と伝えてみると他の社員は「たぶん俺らと飲み会するのが嫌だからベジタリアンなどと嘘を言ったのだろう」と勘違いされてしまいました。
 
ぎくしゃくしてしまい、ここも退職することにしました。
 
 
僕は、日本社会でホワイト企業を見つけることは稀であり、大変なことと思いました。
 
しかし、諦めてはいけないと思いました。
 
次は、中小企業のメーカーに派遣で就くことになりました。
 
始めて派閥争いがほぼ無い環境でした。今までで一番、良い方々に恵まれました。
 
「ここは打って変わって過ごしやすい!」と嬉しくなりました。
 
また、仕事もすぐに覚える事ができ、他の方々との関係も良好で楽しい毎日を過ごせるようになりました。
 
しかし、1年半ほどして、2020年6月にコロナの影響で業績が悪化してしまったのか、契約満了になってしまいました。
 
僕は既に40歳になっていました。
 
年を取れば取るほど、派遣での就業は難しくなることを僕は事前に調べていました。
 
そこで、2020年7月から起業の準備をすることにしました。
 
そして、今に至ります。
 
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僕は誠実な方々と交流しております。
 
(一言;いわゆるよくある商用ラインの様な営業ではなく、普通の友達のようにプライベートでつかってます)